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詳細1

1 東山道の記念公園石碑

東山道の記念公園石碑

東山道沿いにあった野路宿駅(野路岡田遺跡)発見

 平安・鎌倉時代の「東山道」沿いには当時の宿駅として重要な位置にありました。この集落の南はずれの旧東海道沿いに諸国六玉川の一つ「野路の玉川古跡」があり、平安・室町時代の和歌にしばしば登場し、人々の耳目を集めた名所で、萩の名所だったことから「萩の玉川」とも称され、東海道を行く旅人の憩いの場でもあった名跡の面影を今日まで伝えています。
 平安・鎌倉期に、「野路岡田遺跡」が発見されたことから「宿駅」として大きな役割を果たした「野路宿」が作られたと考えられています。
 また、草津は東海道と中山道(東山道)の分岐点であった軌跡が残っています。中世以来の重要な交通路であったとともに軍事的な重要拠点でもありました。
 室町時代に入ると、「草津宿」が現れ、江戸時代には幕府によって草津が東海道五十三次の宿として整備され、宿としての野路宿が衰退したようです。
 

2 南草津駅の周辺

 野路町は草津市の南東部に位置し、東西に広がる面積4.35k㎡の大きな面積をもつ街です。野路町字狭間には、面積約30,000㎡の狭間池がありましたが、平成の東部土地区画整理事業の実施に伴い埋め立てられ、その姿を変えています。
 明治時代に文明開化とともに明治22年、国鉄東海道本線が開通しています。
 昭和9年の国道1号線の開通、昭和39年には名神高速道路および国鉄東海道新幹線の開通などにより交通網が発達し、昭和45年には松下電器産業団地が誘致され、ついで、県立文化芸術会館(現 草津市に移管、名称も草津クレアホールに変更)の建設、住宅地の開発など著しい変貌を遂げています。
池を埋め立てての駅前周辺開発により平成6年(1994)JR南草津新駅が開業、その後、平成23(2011)年には新快速電車が停車する駅になり、乗降客も順調に増え、県下一乗降客の多い駅に発展しています。

3 旧東海道の今昔

 江戸時代には、矢倉・野路・南笠の街道沿いには松並木が続いていました。
 東海道は、中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中を加えた五街道の中でも江戸と京を結ぶ随一の幹線道路でありました。
 
 
 
←(赤線標示は歩行者の安全通路)
 
 
 
 
 
←(野路から矢倉付近の当時の松並木街道写真)
 
 
 
 
← (現在の矢倉付近の状況)

4 野路の一里塚

 江戸時代、一里塚の設置とともに、街道沿いに松を植えることを幕府は命じた。街道に日陰ができるとともに埃除けや風除けの役目も果たし,松並木の維持管理は、周辺の村に負わされました。
「一里塚」とは、街道の一里 (約4㎞)毎に両脇に塚(土盛)を築いてその上に松等を植え、旅の旅程の目安として、江戸幕府は主要な5街道を整備しました。「野路一里塚」は東海道「江戸日本橋」から119番目になります。  
  草津市立矢倉小学校の南側辺りで、旧東海道は現在の国道1号線と交差していて、その辺りの道筋は消滅しており旧街道の面影は見当りません。国道1号線の南側に「上北池公園」という小さな公園があります。ここには、付近に「野路一里塚」があったことを示す案内板や石碑があり、また、あずま屋には街道を描いた浮世絵が掲げられています。
  明治14年(1881)に国道1号線の整備に伴い「一里塚」も消滅し、今ではその面影はなく、現在の位置より約20m先に設置されていたもようで慶長8年(1603)徳川家康が征夷大将軍となり、街道整備の着手が行われてきました。

5 本誓山 教善寺

 浄土宗・教善寺は、江戸時代前期の承応2年(1653)、当地の念仏篤信者・遠藤権兵衛が剃髪し僧となり、敷地と田畑一町歩(約3000坪)を寄進、開山上人に清誉浄雲和尚を迎えて建立した。以来、49代に渡って法灯が連綿と継承されています。
 旧東海道の沿道に建ち、近江湖南二十七名刹の21番札所、びわ湖百八霊場101番札所にも数えられる寺院です。
 

6 若武者平清宗の銅塚

 教善寺のすぐ西側、南草津病院を含む遠藤家宅の庭には、平家の悲劇の若武者・平清宗の胴塚(五輪塔)があります。
 清宗は父・宗盛とともに源平最後の合戦・壇ノ浦の戦いで源義経に捕らわれ、鎌倉から京都への帰路この地で首を落とされた(享年17歳)。
 首は六条川原に晒されたが、当地に胴が残ったため胴塚が建てられ、約820年を経た今でも遠藤家一角に保存供養されています。
 

7 玉川山 浄泉寺

 室町時代の長録4(寛正元・1460)年、野路城主・黒川駿河守宗次は本願寺第八代法主・蓮如上人より御化導を受けて得度し、僧「圓實」となった。圓實は真宗門徒衆と協力して野路城の一角に「十禅念仏道場」を建立した。約50年後、道場は改名され、「玉川山・浄泉寺」となり、これが浄土真宗大谷派・浄泉寺の開基であります。
 戦国時代になって野路城は破壊されたが、浄泉寺は残された。そして江戸時代中期の享保6(1721)年、念仏道場の建物は現在の寺院建築の本堂に改築された。その後山門や鐘楼も建立され、境内等も徐々に整備され現在に至っています。
 

8 白萩山 願林寺

  浄土真宗大谷派・願林寺は永正9(1512)年、「願林寺願主の釈祐正」が本願寺第九代法主の実 如上人から方便法身尊形(阿弥陀如来画像)を授与され、「西の念 仏道場」を開いたのが開基とされています。
同寺の山門は、旧膳所藩が明治初期に解体されたとき、城門(長屋門)を譲り受けて移築したもので、「虫籠窓」が三箇所見える造りになっており、一尺二寸(約40cm)の大きな門柱、分厚い板に鉄鋲を打ちつけた扉が重厚さをかもし出しています。
 鐘楼は江戸中期のものと思われる。梵鐘と鐘楼は寄進でできたが、基礎の石積みの資金が乏しく、門徒一同が積み石を持ち寄って造ったこともあり不揃いの石が見事に積まれています。
 

9 八幡神社跡地碑

 元々「八幡神社」が建っていたところ。栗太郡志によると、寛平元年(889)に勧請され、その後、明治末から神社合祀政策によって、大正5年(1916)に新宮神社に合祀されました。その昔、社地3ヘクタールにおよび、広大な敷地をもっていたと推定されることから、村人はもとより街道を往き交う旅人や武家衆などから篤い信仰を得ていたと思われます。
 八幡神は中世の源氏の信仰を得て、武士の守護神ともなり、さらに広く民間に尊崇されて、各地に広がり、野路は鎌倉時代には東海道の宿駅として重視され、源頼朝をはじめ有力武将の宿泊したところであったようです。
 村人からは「八幡さん」と親しまれ、盆踊り、大神楽、映画会、消防組や在郷軍人会などとして必要に応じて使用されてきたところです。
 
 
「野路在郷軍人用地跡」
 かつて、満20歳から満40歳(昭和18年からは45歳)までの男性は兵役の義務を負わされていました。
 普段は一般の国民として生活をしながら、 いざという時には戦場に赴かなければならない人々のことを「在郷軍人」と言っていました。
 また、地域での防火訓練や竹槍訓練の指導等も行っていました。
 明治37年(1904)日露戦争に宣戦布告した戦争も終わり、その経験から現役兵のみでは戦争の兵員需要を満たしきれないことが明らかになり、明治43年(1910)陸軍によって各地に組織され、その後大正14年(1914)には海軍も合流したようです。
 同年第1次世界大戦に参戦、昭和14年(1939)第2次世界大戦に参戦1945.8.15天皇「終戦」詔勅。敗戦による軍国主義追放により、昭和21年(1946)にこの会は解散されています。
 

10 重要文化財 「新宮神社」

 社記によると、奈良時代の高僧(行基)によって野路寺創立の時、鎮護社として天平2(730)年に創建された。祭神に速玉男命と事解男命が祭られており、熊野速玉神社(大社)の分社と考えられています。
 また、宝亀元(770)年、野路里の鎮守様として野路宿弥春原為亮が社
殿を建立されたと伝えられています。現存する本殿は、大永3(1523)年、室町時代建立の優美な桧皮葺で、重要文化財に指定されています。このほか歴史的に価値あるものとして、入口の脇門には旧膳所城門が移設され、膳所藩本多家の家紋「右離れ立葵」の軒丸瓦が見られます。
 

11 不動道

 田上山系の太神山山頂(標高599.7m)に貞観元年(859)智証大師円珍不道明王を刻み、国家鎮護の霊場として祀ったのが始まりとされています。田上不動への道標です。
 野路新宮神社前駐車場内に石道標があり、ここから大津市田上地区に至り、さらに、太神山山頂付近にある太神山不動寺を目指したものと思われす。
 
※田上不動の由来
 高い山の頂上には山の神がおり、田植えの季節となると裾野に下って田の神となるという原始信仰が各地にあり、太神山もそれにまつわる山と考えられます。
 不動道を示す道標は、大津市内には数か所残されており、近年まで不動道と呼ばれた参拝道を利用したようです。

12 玉川山 常徳寺

 奈良時代の高僧・行基が729~749年頃に創建したとされる「野路寺」が常徳寺の前身であると考えられています。常徳寺は当初、法相宗や天台宗であったが、戦火で衰退し、江戸時代の明和5(1768)年に明庵和尚が再興した際に曹洞宗となりました。
 江戸時代、野路の観音堂池から、かつて火災にあって池に沈められたと伝えられる黒こげの観音像が発見され、明治初期になって、人々の寄進により常徳寺境内に観音堂が建てられ、そこに安置されています。
 平成13年に観音像とともに解体・修復され、現在も人々の信仰を集めています
 

13 子守地蔵

 江戸時代に九州肥後の殿様が、参勤交代で草津方面に行列しているとき、道脇に土下座していた母親と四歳の男の子の前に一匹のカブト虫が飛来し、それを捕ろうとして行列を乱し『おのれ百姓の分際で、殿のお籠先をけがす不届きものめ』といって、腰の刀を抜くが早いか、いきなり二人を切殺してしまいました。
 村の人々が哀れな二人の供養のためにと、お地蔵さんを刻みその辺りに祀り『子供を守ってくれる子守地蔵や』と言って永い間、村の人々の篤い信仰を集め、今も毎年8月23日の地蔵盆に子供達や近所の人々が地蔵さんを化粧し、お供物をあげて供養する習わしが今なお続いています。
 

14 旧東海道今昔

 
 
 現在、祀られている「子守地蔵」付近の当時の街道風景です。
 
 
 
 
 
 最近の「子守地蔵」付近の街道風景です。

15 「野路の玉川」古跡

 集落の南はずれの旧東海道沿いに、諸国六玉川の一つ「野路の玉川」古跡があります。六玉川とは古来、歌枕として詠まれた六ヶ所の玉川の一つで、かつてここで文人墨客たちが和歌を詠む詩想を呼び起こす名所だったようです。
 
 付記:六玉川 1. 野田の玉川(陸奥) 2. 調布の玉川  (武蔵)
        3. 野路の玉川  (近江)  4. 井手の玉川  (山城)
                      5. 三島の玉川  (摂津)  6. 高野の玉川  (紀伊)
 

16 新宮神社 御旅所

 神社の御旅所となったのは御幸祭(渡行)の神事が行われるようになった室町時代の中頃(15世紀ごろ)から始まったと考えられています。この地は、鎌倉時代・近江の国守佐々木高綱が「観音堂」を建立したと伝えられる地です。

17 観音堂池

 近郷最古の溜め池。観音堂池は奈良時代の僧・行基の主導により施工されたと伝えられています。近江国主 佐々木高綱(1160-1214)が刻んだ木造「弥市観音」である。江戸時代、野路の「観音堂池」近辺で火災があり、その際池に沈められたと伝えられる黒コゲの観音像が発見されました。明治初期、常徳寺境内に観音堂が建てられ、のちの平成13年(2001)に建て替えに伴い観音像も修復されたものが安置されています。
 観音様「常徳寺観世音縁起」より
 平安時代作 寄木造り 聖観音菩薩(立像)身体1m余り、聖とは「聖なる」という意味であります。
 

18 萩の玉川 (十禅寺川)


 十禅寺川は牟礼山(標高221m)から南は狼川、中央は十禅寺川、北は
北川と3本の河川が流れています。この河川は山から流れ出る土砂で川底の高床化が進み東海道を過ぎると天井川となっているのが特徴です。
長さは起点から琵琶湖まで5.3kmと小さな河川ですが、平安時代、鎌倉時代には、清く澄んだ玉のような水が沸き流れ、人馬の喉を潤し、田畑にはなくてはならない水でした。昭和初期頃はオオサンショウウオが棲み、ムツ、フナ、コイ、モロコ、ウナギ、スッポン等の魚類や、シジミ、タニシ、ドブ貝の貝類も豊富に採れ各家庭の食材となっていました。昭和20年頃までは子どもたちの良き水遊びの場でもありました。
 

19 小野山製鉄遺跡


 国道1号線京滋バイパス建設にともなう発掘調査で、製鉄炉10基、木炭窯6基、大鍛治跡1基、管理用建物1棟、工房跡11棟など、奈良時代の製鉄に関する遺構がすべてそろって発見されています。これらの成果から、わが国における製鉄技術の発展と、古代国家における鉄生産の実態を明らかにする上で、きわめて重要な遺跡として、昭和60年国の史跡に指定され、平成17年度の調査では、整然と並ぶ製鉄炉4基が見つかり、未発見の製鉄炉が地下に多数眠っていることが明らかになりました。

20 「新宮神社」分社


 新宮神社の所有地であった桜ケ丘の用地を開発(昭和55年)した業者が、地域の守り神として野路・新宮神社の御霊分けを行い、毎年5月3日に例祭が行われています。

21 「八左衛門池」跡地


 農業用水の確保のため、野路村惣代の八左衛門は現在、立命館大学構内地底になっている谷開口部に堤防を築き、自費で溜池を作ることを計画し、工期3年を要して、嘉永5年(1852)に用水池を完成させ、功績により膳所藩主から表彰されたと伝えられています。

22 木瓜原(ぼけわら)遺跡


 立命館大学びわこ草津キャンパス(平成6年開校)が野路山に誘致され、開発工事に先立ち、山の表土を削り取ると製陶・製鉄炉跡・炭焼き窯等が出てきました。木瓜原遺跡は奈良時代670年頃から750年頃に製鉄・製陶(須恵器・土師器)から梵鐘の鋳造まで行なっていたと考えられる遺跡です。
 この遺跡は琵琶湖との高低差50メートルのなだらかな丘陵地帯の中に位置し、4キロほど南西には近江国庁が営まれていた瀬田丘陵一帯は近江国庁の設置と共に開発が進められ、この木瓜原遺跡もその一環として律令国家の建設に大きく関与していたものと考えられています。
 この木瓜原遺跡埋地の一部は原型のまま、キャンパス・グランド下に保存されています。
 

23 立命館大学

 立命館大学びわこ・くさつキャンパスは、1994年京都衣笠キャンパス理工学部から移転開学したものです。
 現在、理工・情報理工・生命理工・薬学・スポーツ健康科学・食マネージメント学部等、約1万5千人の学生が勉学に励んでいます。
 

24 野路公園の整備計画図

 野路公園の整備は、市民の憩いの場を野路8丁目地先の仮又池周辺を、水や緑と触れ合え、潤いと安らぎをもたらす拠点となる公園を整備しようとされるもので、隣接する「野路小野山製鉄遺跡」と一体的な活用を図るべく計画が進められています。
 

25 南草津周辺の遺跡分布図

 
 近江(滋賀県)には、歴史街道と共に歴史的遺跡や史蹟が多く残されています。
 南草津地域も遺跡や史蹟が多くあります。
 

26 草津クレアホール

 草津市民の文化芸術活動を支える拠点施設として、県内有数の本格的な機能を備えた舞台ホ-ルや展示ホール、リハーサル室などを備えています。平成27年(2015年)滋賀県から草津市に移管されています。

27 新宮神社例祭の風景(1)

 神輿に乗った神様は、氏子の生活を直接ご覧になり、幸いを与えられると信じるようになり渡行が始まりました。渡行が始まった年代が定かではありませんが、室町時代になると、今に伝わる神輿を担ぐことは一般的になっています。
 

28 新宮神社例祭の風景(2)


 
 
(於:御旅所)         
 
 
 
 
(於:蓮池グランド)

29 弁天池

 弁財天が祀られ、水を司る神を祀っています。
 池には、中央に孤島があり、小さな社が祀ってあります。
 水不足の年には雨乞いや豊年祈願の祭りを行った池であろうと思われます。
 琵琶湖の竹生島にも弁財天を祀られています。弁財天の起源は、水の神であるので恵の雨を降らせ、豊穣をもたらす神として信仰されてきました。また、技芸運の神としても崇められています。
 この池には、村百姓の娘「つゆ」と膳所藩や西国大名の飛脚御用を勤めていた江戸の日野屋重兵衛店の奉公人「喜助」との悲恋物語が語り継がれています。
 
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