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・歴史文献に出てくる野路

人々の往来を見つめてきた
野路の宿場町

京の都にほど近く、東山道や東海道といった官道が通る交通の要衝であった野路は、都を目指す人々が最後に投宿する宿場町として古くから有名であり、様々な歴史文献の中に「野路宿」「野路驛」などとして登場しています。
 
写真:「東海道五十三次、江戸時代の草津」広重

~ 野路町の歴史年表 ~

1180年
平維盛は平家の大軍(5万)を率いて、伊豆で挙兵した源頼朝(関東軍)攻めの途中、野路に泊まる――とある。「源平盛衰記」
1183年
平家の大軍(10万)が木曾義仲追討のため、都から北陸道と東山道に分かれて勢多橋を渡り、野路宿を通って北陸路へ向かった――とある。「源平盛衰記」
1185年
源義経、篠原宿にて平維盛を斬り、次に野路口においてその子平清宗を斬る――とある。「吾妻鏡」
1190年
源頼朝が奥州討伐して、美濃路を経て東山道を上洛の途中、野路宿にご逗留せしめたまい、5月6日豪雨のため一日上洛を引き伸ばし、5月7日午後ご入洛――とある。「吾妻鏡」
1221年
承久の乱、承久3年6月12日、北条時房(相州)・北条泰時(武州)と鎌倉軍が野路の辺で休息す。13日時房以下鎌倉軍、野路より方々の道に相分かる。時房、勢多橋で官軍に戦いを挑み云々――とある。「吾妻鏡」
1238年
嘉禎4年2月16日、将軍家九条頼経、野路驛にご逗留、明日ご入洛の云々――とあり、翌17日野路宿を御出る――とある。「吾妻鏡」
1246年
寛元4年7月27日、将軍、野路で昼の御宿なり、この所において日暮れ、夜半に及びてたたる――とある。
1252年
宗尊親王、鎌倉に下向の途中、野路驛に御泊る――とある。
1280年
公安3年11月、京より東山道を旅行せし紀行文あり、著者の名を逸す、題して春能深山路という、13日京を出て勢田を渡り野路驛に午餐を為し蒲生郡鏡驛に宿したるを記す、此紀行中注意すべきは当時勢田橋が腐朽して危険状態にありしこと、野路驛にて椎の木柴を折敷たる上にて午餐を為したるをいうもの――とある。
「栗田郡志 第四篇鎌倉時代(第20章288P)」
1299年
草津という地名が文献にはじめて登場する。
1422年
(室町)足利義持が草津御所を造営する。
1603年
(江戸)徳川幕府によって草津宿場が開かれる。
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